Archive for 2011年10月25日

KENTARO

2011/10/25

[ NU;cafe ] クリエーター・インタビュー

踊れて弾けるダンスがいい!

KENTARO!! (ダンサー/コレオグラファー/コンポーザー) 

コンテンポラリーダンスの世界で独自の路線を突き進むKENATARO!!。
もともとHIPHOPダンサーとして数々のショーステージを経験してきた彼のダンステクニックは、当初、コンテンポラリーダンスの中で異色と見られながらも、独特の弾き語り風な世界観で構築される作品性とその存在感が高く評価され、2008年,横浜ダンスコレクションRにて最優秀賞の受賞以来、国内でも海外でもその勢いは増すばかりで、ダンスでは珍しい2週間のロングラン公演、ミックスカルチャーイベントのオーガナイズ、若手のダンサーを育成するためのキュレターなど、ダンスという分野全体の活性化にも切り込み続けている。
”唄あり踊りあり芝居あり”最大の特徴は、すべて自分でつくってしまう詩と楽曲の面白さ。自身は「まだまだ素人なんで」と謙遜するが、ミュージシャンがつくろうとしても、なかなかつくれない独特の身体性・日常への視点に根ざした繊細でユニークな空気感を伝える。
公演後の物販では、その反響が如実に現れ、相当数の観客が踊りの印象とともにCDを購入していく。
今回は、KENTARO!!を直撃し、その作品性と音楽性、そして今後の行方について聞いてみた。


1、残る作品をつくっていきたい

ーkentaro!!くんといえば、ダンスだけじゃなくて作品の振付家でありイベントオーガナイザーであ、キュレーターでも活躍していますが、もともとはHIPHOPダンサーですよね?

小学校の頃にダンス甲子園を見てブレイクダンスをやりたくて、中学校の頃にダンス教室を見つけて、それ以来続けていますね。そこはブレイクダンスじゃなくて普通の立ち踊りでしたが。
仕事としてのレッスンはHIPHOPを教えています。たまに作品つくる時に関連して、HIPHOP以外のコンテンポラリーダンス的作品を作ったりもします。

ーコンテンポラリーダンスへの転機は?

以前はレッスンしたりたまに振付したり、ストリートダンスイベント(CLUBなど)で踊ってギャラをもらうというサイクルでした。
色々な仕事をしてきたんですが、それだと作品を残すことにならないと感じて。そんな時にソロダンスをやりはじめました。それからコンテンポラリーダンスが少し気になって、、。
観はじめたのは23,24歳ぐらいの頃。20歳の時にも勅使河原さんの舞台見て、その時は、「ヘンなダンスだなあ」と思って特になんに感じなかったんですが、何年か経ってまた色々見だしたら実は様々なダンスがあって。割と踊っている人の内面が出ているっていうのが、すごく新鮮で、、無音で踊ったりしてるのが、カルチャーショックでしたね。

ーHIPHOPだと、基本、音に合わせますよね。

踊らないところが、逆に良く見えたりするってことがあるっていうのが、演劇的でもあって勉強になりました。もともと、ワンマンライブをやりたいと思っていたのですが、構成するうえでは、瞬発的なショーだと間がもたないなので、すごく参考になりました。

ーコンテンポラリーダンスの中でHIPHOPって初めてでしょ?

HIPHOPという型をもっていて作品を作るダンサーとしては、一番認知していただいているとは思います。最初始めた頃は、どう評価していいか分からないとか、ただのHIPHOPだとか言われてそこから賞とかとって、やや変わっていきました。

ーダンス作品で一番大事にしていることは何ですか?

最近、その時々で変わっちゃうんですけど、1番思ったのは、コンテンポラリーダンスは踊れる作家と踊れない作家は違うなと。踊れる人がつくる作品は、踊りたいからつくっているわけで動きのあるもの、踊れない人がつくりたいものは動かないものという傾向がある。もちろん例外は沢山あります。で、どっちがいいのかなと思うと僕は単純に踊っていたいし作品もつくりたいんですけど、大事なのは、やりたいことをどれだけ伝えることができるかということなわけで、運動量も大事なんですけど、それをただ踊っているだけじゃなくて、どう作品に変換していけるかって事が大事です。

1時間ならショーではなく絶対作品にしたいですね。見終わった後に、楽しかっただけじゃなくて、物語じゃないですが、自分の人生を重ねてとらえられるものとか、、多分かっこいいとかだけだと、いまいち、そこが伝わらないですよね。そこを意識しています。
作品性と踊りたい衝動とのバランスですね。

後々残っていくダンスをつくるなら、テクニックとして残すというよりかは、最終的には作品を残したい。いまのうちに踊れる作品はつくって、40、50歳になったら、踊りはやってても踊らない作品とか映像作品とかバンドライブとか、そういうのも目指したいですね。

[NU;LIFE] OASIS 朝山正和さんのインタビュー記事を掲載

2011/10/24

「やっぱり海、それでも海」第三弾
葉山海の家OASIS 代表/葉山芸術祭実行委員 
朝山正和さんの記事を公開いたしました。

OASISは、葉山森戸海岸で30年以上続いている伝説の海の家。
期間中は、毎晩レゲエミュージシャンを中心にしたライブでにぎわい、
複合的に立ち並ぶバーでは世界の酒が並び、オープン当初から安心できるオーガニック料理を提供してきた。

夏になるとこつ然と現れる、その無国籍なたたずまいは、
日本にあって世界のいいバイブレーションが凝縮されたもので、
地元葉山でもひとつのコミュニティとして定着した。

「時代と呼吸し続けること」
– 海に開かれた無国籍ラウンジOASISが切り拓いた地平 -

http://nu-life.jp/?p=1893

どうぞ、ご覧ください。

少し時期はずれとはなってしまいましたが、一連の”海族”の取材を終えて、
編集後記を近日に公開する予定です。

少しお待ちいただければと思います。

OASIS_Masakazu_ASAYAMA

ー特集・連載ー 「やっぱり海、それでも海 PART3」

時代と呼吸し続けること
– 海に開かれた無国籍ラウンジOASISが切り拓いた地平 -

OASIS 代表/葉山芸術祭実行委員 朝山正和さん

夏の期間、葉山森戸海岸に突如として現れる無国籍ラウンジ。店内は多様な老若男女な客で溢れかえり、波音をBGMにオーガニック料理と世界各国の酒を楽しむ。ステージでは、毎晩のように、やはり無国籍にいつまでもライブ演奏で盛り上がる。ここはどこ?ここは何?
仕掛け人は、朝山正和さん。30数年前に葉山に移住。建築家を目指しながらも、より自由な表現空間を求めていた朝山さんの才能は葉山で一気に展開した。戦前から独特な発展を遂げた葉山の豊かな自然と朝山さんの発想が結実したのだった。海の家の運営をはじめると、旅人やアーティスト、地元の若者が、その居心地のよさに集うようになる。次第にオアシスは、地域と密着しながら育ち、文化の交流発信拠点となっていった。その後、朝山さんは、そのネットワークを生かし葉山芸術祭に新たな切り口を提案するようにもなり、地域文化のキーパーソンとなっていった。
今回は、ひと夏の海の家に全力投球し、クールダウンしながらも早くも来年の芸術祭やOASISのプランを目論み始めた朝山さんのアトリエを訪問し、伝説と化した海の家OASISの話を中心に、芸術祭や、海辺の魅力について語っていただいた。

OASIS @flickr

「OASIS をはじめた理由」
ー オーガニック+エスニック+レゲエ ー

ー 葉山に来る前は、どういった活動をされていたのですか?

 東京の大学で建築科の学生をしていました。卒業した直後から、なんとなく海の近くに住みたいと、茅ヶ崎とか二宮あたりの物件を探していた時、葉山町の垢抜けた空気感が気に入り、都合良く好い賃貸も見つかった事が理由です。知り合いが居たとか、葉山を調べてということはありません。全く偶然でした。
 引っ越し後、仕事は直に見つかりました。大学の先輩の紹介で、逗子で商業建築を手がける矢野真さんの仕事をアルバイトとして手伝うようになりました。もともと建築を目指しながらも図面を描くのが嫌いだった(笑)ので、矢野さんのフリーハンドなスタイルが面白かったです。
 当時は、鎌倉付近には戦後を創った、文学者、アーティストなどインテリ層がまだ多く住まわれていて、矢野さんが、親しい澁澤龍彦さん(*注1)、田村隆一さん(*注2)、辻村寿三郎さん(*注3)らの交流の場に、僕も度々連れて行ってもらい、刺激的な話に耳を傾けていました。社会生活の始まりがそんな感じで。

ー なぜ海の家をはじめるようになったのですか?

 逗子の商店街を抜けた突き当たりにある陰陽堂(*注4)という自然食品屋の主人の宇野さんが僕ら、暇人(笑)数人に声かけてきて、「海の家やらないか~?」と誘われ、即「やります!」って気軽にいってしまったのがきっかけです。1981年の話です。
 一緒に働くことになった仲間たちは、当然自然食だったし、アジア中心の旅好きであり、エスニック料理好きであり、音楽好きでした。レゲエ音楽はまだ日本に浸透しはじめの頃で、そのゆるさ、米英音楽とは違うオリジナルさに惹かれていました。仲間の一人、デザイナーの真砂(*注)は、大学の同期生なんですが、バリ島帰りでした。彼の提案で建物は葉山の竹を使って作ることにしました。そうしてスタイルは自然に決まりました。30年経った今も、基本的にやってることが同じですね(笑)
 今では「オーガニック+エスニック+レゲエ」は自然な組み合わせに感じられるでしょうが、当時はそのひとつひとつの概念すらまだなくて、だからその時代にOASISは相当珍妙な存在だったでしょう。まだ森戸海岸には、27軒の海の家があり、ひしめき合っていたのですが、その中で旅人とレゲエ好きが集まる自然食のカフェは異色を放っていたでしょう。あまり人が寄りつかなかった(笑)。もちろんカフェという言葉もなかった。

OASIS @flickr




(注1:) 小説家、仏文学者、評論家。アヴァンギャルドな思想と作品で同時代を生きる多くのアーティストに影響を与えた。

(注2:) 詩人、随筆家、翻訳家。詩誌『荒地』の創設に参加し、戦後詩に大きな影響を与えた。

(注3:)人形作家、人形操作師。アートディレクター。

(注4:) 逗子にある自然食品店。40年以上前から食の安全を提唱している。

(注4:) 真砂秀朗 アーティスト・ネィティブフルート奏者 http://www.awa-muse.com/about/profile.html