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特集 「つなぐ人」ver.002

自然エネルギーシフト

吉田俊郎 トランジションタウン 代表



「地域のより強い繋がりと日々の循環型社会への取り組みが産業経済中心の社会を変革していく」吉田さんは、いまや全国に広がるトランジション運動の起点となる人物。2009年にトランジション・タウンを立ち上げNPO法人化。現在は、拠点を熊本南阿蘇と葉山に置き、自ら自然エネルギーによるオフグリッドな生活の実践。そして、全国をイベントやレクチャーで巡りネットワークを形成しながら、持続可能な社会へ気持ちよくシフトしていくためのノウハウをワークショップ等より人々に伝えている。


それぞれの想い、夢、ノウハウがトランジション経由よってつながっていった



ートランジションジャパンが生まれた経緯について聞かせてください。

2008年5月、4人でまずトランジション・ジャパンを始めました。
1人がパーマカルチャーの同期生の榎本英剛は、フィンドホーンのエコビレッジ(注1)に住んでいて、「面白い企画があるから来ない?」って誘ってきて、それが、ポジティブエネルギーカンファレンスという、いろいろな環境系の人が集まりワークショップやレクチャーをやる機会でした。その中に、トランジションタウンがあって、日本から1週間3名で参加しました。ロブホプキンスさん(注2)なんかも、そこで講演をしていました。それが終わりロンドンで1週間の研修を受け、4名で帰ってきて始めたのがきっかけです。葉山、神奈川県藤野、東京都小金井で、拠点は別であったとしても、「とにかく実践しよう!」と始めました。

イギリスのトランジションタウンの考え方や資料を日本で伝えるべく、資料の翻訳をしたりHPをつくったりする一方、葉山では知人友人に説明会をしたり、毎週毎週誰かのうちでご飯食べながら話したり、、。その年はずっとそんな地道な活動をしていました。結果メンバーは10名に増えました。ここで何がしたいか、お互いのやりたいことを深め合う期間でしたね。
翌年1月、そろそろ具体的に何かやったほうがいいよねということで、一色会館で説明会とディスカッションの場を設けました。120名ぐらいの友人知人に声掛けしたら、なんと70名ぐらいが集まった。
どうやったら葉山が環境に優しい持続可能な街になっていけるか?ということがテーマでした。葉山で長い期間環境の活動してきた人だったり実践している人が多かったせいか、参加者からどんどん手が挙がった。景観、山、海、川、様々なフィールドで、それぞれが、すでに活動していた。大先輩の杉浦さん(注3)とか安藤さん(注4)なんかも意外に共感してくれた。だから、こちらのスタンスも新参者が新しく何かを始めようではなく、今あるひとりひとりの動きをつなげようというもの。会は、盛り上がり3〜4時間にも及びました。みんな、そういう場を探していたことが分かった。地産地消など数グループが、その場で立ち上がったり、ML要請があったり、あんなに盛り上がったのは正直体験したことがなかったですね。
鎌倉の「かまわ」という環境NPOの人たちもそこに参加していたのですが、トランジションに参加したいといってきてトランジション鎌倉も生まれました。


ー 割ととんとん拍子に進んでいったわけですね。

そうですね。それぞれの地域のトランジションが、イベントを重ねていくうちに地域同士のつながりや相乗効果が生まれました。趣向の違いも当然あって面白いですよ。
地域通貨「なみなみ」は逗子、葉山、鎌倉共通で使えます。
鎌倉のゲストハウス「亀時間」も、そんな トランジションの交流の中で、2010年に生まれました。葉山環境デザイン集団(古い家を守って景観を保つ活動等)代表の高田明子さん(注5)が、この地域のあらゆる物件をもったオーナーさんたちに直接連絡をしてかけあってくれて、材木座のオーナーさんと3〜4ヶ月交渉して生まれました。本当素敵な空間なんですよ。
楽しくやっている間に自然に(活動の主旨が)伝わってしまうという自然な方法でトランジションのコンセプトを伝えることができました。
葉山は楽しいところ。でも、それぞれが楽しんでいてつながり感が希薄だった。それが、じょじょにエネルギーが見える形でつながっていくのを肌で感じました。
 面白いのは、逗子鎌倉葉山の動きがつながっていったこと。2010年に「ミツバチの羽音と地球の回転」(注6)の上映会をリレー上映会したり連携してやったり、北川湿地の保護運動(注7)も、三浦半島エリアで共同で動いた。先日は、なんといってもトランジションの良き理解者であった山梨さん(注8)が葉山町長に当選したのは大きい。住民の共通認識が目に見える形で顕在化したのだと思います。鎌倉のイマジンなんかも素晴らしい活動ですね。
続けて行くと必ず、そのエネルギーって伝わりますよね。

ートランジション藤野も盛り上がってますよね

NPOの初代代表でもありトランジション自体を牽引してきた榎本さんは、トランジション藤野のいいだしっぺでもあります。藤野にはシュタイナー学校があるので、それを目的に移住された方が多い。その影響は大きく、そこの学校の生徒の父兄の方々の意識が高い。
葉山は濃すぎて(笑)、それぞれが勝手に動く性質があるのですが、藤野はもう少し真面目で男性の関わる人数が多く比較的着実ですよね。
トランジションって、地域同士で同じようにできないんですよ。その地域の特性があって真似しようと思ってもできないし、それぞれに合った方法でしかできないんですよね。
例えば、小金井なんかは、もともとベッドタウンで全般的に市民の地元への関心は薄い。だから、地域の掲示板等に情報貼り出して毎回10名程度の参加者を集め、だんだん増やしていって、、。ただ、元々環境団体が多い場所でもあったので、そことつながっていって輪が広がっていきました。例えばキエーロ(注9)が、小金井に普及して葉山からトキツさん(注10)が講習にいったりしてたら、小金井市としてキエーロに取り組む動きになっていたり。

Photo by Shunro Yoshida



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(注1):フィンドホーンとはスコットランドの北の端にあるスピリチュアルなコミュニティ。
1962年アイリーン&ピーター・キャディ夫妻と3人の子どもたち、そして友人の
ドロシー・マクリーンとが勤めていたホテルをクビになったため、フィンドホーン湾
に面した荒地にトレーラーハウスを置いて住み始めたのが最初。
生活のためにその荒地を開墾し野菜を作り始めたところ、そんな砂地では出来る
はずのない立派な野菜が採れ、中には巨大なキャベツやカボチャが採れたことから評判になり、地質学者などが調べに来る。
調査の結果肥料が良質とだけでは説明がつかず、そこには明らかに目に見えない愛のエネルギーが介在しているとしか思えないという報告が発表される。
そしてそのエネルギーに触れたいと世界中から人々が集まるようになり、今では
年間15,000人以上の人が訪れ、常時400人くらいが住み、国連からもNGO
として認証される共同体となった。
最初はスピリチャルなムーブメントとして一躍脚光を浴び、持続可能なコミュニティーとしてエコビレッジとして有名になり,現在は持続可能な取り組みの研修の場としての教育の機能が加わっています。

(注2):トランジションタウンの初代提唱者。地球温暖化と石油ピーク問題に立ち向かえる持続可能で豊かな社会(地域)づくりを構想した。彼の構想にインスパイヤされ、世界各国にトランジション運動が起こった。

(注3):故杉浦敬彦さん 建築家で初代葉山環境デザイン集団の代表

(注4):故安藤忠雄さん ゼロ・ウェイスト政策を葉山町で提唱した第一人者。

(注5):NPO法人葉山環境文化デザイン集団代表。葉山に住む人々の知恵や知識を景観と一緒に、まちの財産として次世代に伝えていく「まちづくり」を目指す。

(注6):鎌仲ひとみ監督による環境映画。本作は、山口県上関原発の問題と向き合う祝島の人々と、スウェーデンでの、地域自立型のエネルギーを創り出し持続可能な社会を模索する人々の取り組みを 追ったドキュメンタリー。原発重視かつ電力独占体制の日本のエネルギー政策は、果たしてこのままでいいのか。決して他人事ではないエネルギー問題を、真摯に考えるきっかけを 提供した作品。

(注7):三浦半島の三浦市初声町三戸地区にある神奈川
県内最大規模の低地性湿地の宅地用開発に対する反対運動。多種多様な生き物が生息するなど、豊かな生態系を誇る当湿地が与え北川湿地を保全することの大切さを訴え、残土埋め立
てと宅地開発の中止を求めた。

(注8):山梨たかひと現葉山町長。2011年12月若干33歳で当選を果たす。行政改革を力点を置き奔走する他、葉山の魅力を豊かな自然であるとしその保護と有効活用に力を入れている。

(注9):バクテリアDEキエーロ。本来土の中の微生物が持っている分解力を活かした「埋めるだけ」の生ゴミ処理機。葉山町が町民の導入に対し補助金を出すなど普及に努めている。

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ー特集・連載ー 「やっぱり海、それでも海 PART3」

時代と呼吸し続けること
– 海に開かれた無国籍ラウンジOASISが切り拓いた地平 -

OASIS 代表/葉山芸術祭実行委員 朝山正和さん

夏の期間、葉山森戸海岸に突如として現れる無国籍ラウンジ。店内は多様な老若男女な客で溢れかえり、波音をBGMにオーガニック料理と世界各国の酒を楽しむ。ステージでは、毎晩のように、やはり無国籍にいつまでもライブ演奏で盛り上がる。ここはどこ?ここは何?
仕掛け人は、朝山正和さん。30数年前に葉山に移住。建築家を目指しながらも、より自由な表現空間を求めていた朝山さんの才能は葉山で一気に展開した。戦前から独特な発展を遂げた葉山の豊かな自然と朝山さんの発想が結実したのだった。海の家の運営をはじめると、旅人やアーティスト、地元の若者が、その居心地のよさに集うようになる。次第にオアシスは、地域と密着しながら育ち、文化の交流発信拠点となっていった。その後、朝山さんは、そのネットワークを生かし葉山芸術祭に新たな切り口を提案するようにもなり、地域文化のキーパーソンとなっていった。
今回は、ひと夏の海の家に全力投球し、クールダウンしながらも早くも来年の芸術祭やOASISのプランを目論み始めた朝山さんのアトリエを訪問し、伝説と化した海の家OASISの話を中心に、芸術祭や、海辺の魅力について語っていただいた。

OASIS @flickr

「OASIS をはじめた理由」
ー オーガニック+エスニック+レゲエ ー

ー 葉山に来る前は、どういった活動をされていたのですか?

 東京の大学で建築科の学生をしていました。卒業した直後から、なんとなく海の近くに住みたいと、茅ヶ崎とか二宮あたりの物件を探していた時、葉山町の垢抜けた空気感が気に入り、都合良く好い賃貸も見つかった事が理由です。知り合いが居たとか、葉山を調べてということはありません。全く偶然でした。
 引っ越し後、仕事は直に見つかりました。大学の先輩の紹介で、逗子で商業建築を手がける矢野真さんの仕事をアルバイトとして手伝うようになりました。もともと建築を目指しながらも図面を描くのが嫌いだった(笑)ので、矢野さんのフリーハンドなスタイルが面白かったです。
 当時は、鎌倉付近には戦後を創った、文学者、アーティストなどインテリ層がまだ多く住まわれていて、矢野さんが、親しい澁澤龍彦さん(*注1)、田村隆一さん(*注2)、辻村寿三郎さん(*注3)らの交流の場に、僕も度々連れて行ってもらい、刺激的な話に耳を傾けていました。社会生活の始まりがそんな感じで。

ー なぜ海の家をはじめるようになったのですか?

 逗子の商店街を抜けた突き当たりにある陰陽堂(*注4)という自然食品屋の主人の宇野さんが僕ら、暇人(笑)数人に声かけてきて、「海の家やらないか~?」と誘われ、即「やります!」って気軽にいってしまったのがきっかけです。1981年の話です。
 一緒に働くことになった仲間たちは、当然自然食だったし、アジア中心の旅好きであり、エスニック料理好きであり、音楽好きでした。レゲエ音楽はまだ日本に浸透しはじめの頃で、そのゆるさ、米英音楽とは違うオリジナルさに惹かれていました。仲間の一人、デザイナーの真砂(*注)は、大学の同期生なんですが、バリ島帰りでした。彼の提案で建物は葉山の竹を使って作ることにしました。そうしてスタイルは自然に決まりました。30年経った今も、基本的にやってることが同じですね(笑)
 今では「オーガニック+エスニック+レゲエ」は自然な組み合わせに感じられるでしょうが、当時はそのひとつひとつの概念すらまだなくて、だからその時代にOASISは相当珍妙な存在だったでしょう。まだ森戸海岸には、27軒の海の家があり、ひしめき合っていたのですが、その中で旅人とレゲエ好きが集まる自然食のカフェは異色を放っていたでしょう。あまり人が寄りつかなかった(笑)。もちろんカフェという言葉もなかった。

OASIS @flickr




(注1:) 小説家、仏文学者、評論家。アヴァンギャルドな思想と作品で同時代を生きる多くのアーティストに影響を与えた。

(注2:) 詩人、随筆家、翻訳家。詩誌『荒地』の創設に参加し、戦後詩に大きな影響を与えた。

(注3:)人形作家、人形操作師。アートディレクター。

(注4:) 逗子にある自然食品店。40年以上前から食の安全を提唱している。

(注4:) 真砂秀朗 アーティスト・ネィティブフルート奏者 http://www.awa-muse.com/about/profile.html




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ー特集・連載ー 「やっぱり海、それでも海 PART2」

「 海が教えてくれること – 第3の家を目指して – 」

BEACH葉山アウトドアフィットネスクラブ® 黒野祟さん

 豊かな自然に恵まれた神奈川県葉山町。日本のコートダジュールと呼ばれるほどに美しい海岸線とゆったりとした時間が流れる。そんな日本屈指のリゾート地葉山の中心、ご用邸の脇の路地をすっと入り海へ向かう途中。平屋の古民家をリノベーションした海まで徒歩0.5分、ほとんど砂浜の延長線といってもいい環境。ここに日本初のアウトドアフィットネスクラブ「BEACH」は位置する。サーフィン・カヌー・カヤック・SUP・シュノーケルなどあらゆるマリンスポーツ。トレッキング、ウオーキングなど森を堪能するプログラム、そしてYOGAを軸としたスタジオメニュー、つまり葉山の自然を最大限に体感できることが大きな特徴である。
早朝からサンセットまで、ここには深い呼吸が流れる。全身からこぼれ落ちる笑顔に包まれる空間。会員は、そんな贅沢な自然と充実したエクササイズを体験できる。美味しいオーガニック料理を味わえる癒しのカフェも併設されている。
今回は、週末のレクチャーを終え海からあがってきたばかりの黒野さんを直撃しインタビューさせていただきました。アウトドアスポーツ + フィットネス + メディカル を通じた自然と社会の融合をテーマに運営するBEACH代表取締役 黒野さん。海辺のフィットネスの魅力とBEACHが今年コンセプトとしてかかげているテーマ「海が教えてくれること」について語っていただきます。

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ー特集・連載ー 「やっぱり海、それでも海 PART1」

「なければ、ないないなりにやればいい」

佐久間不動産 代表取締役 佐久間浩さん

葉山に来た人の誰もが注目するあの小屋。眺望抜群の真名瀬海岸の通称”佐久間小屋”の佐久間さん。海の住み方暮らし方にこだわりをもつ人間のひとりだ。
海に突き出た小屋の扉を開けると、目の前には絶景の葉山の海が広がる。富士山、江ノ島、鳥居、そのどれもが日本の美しいシンボルである。小屋の内部では、写真をはじめとした色とりどりのオブジェが迎える。夕暮れになると採れたての海産物を焼く匂いが広がり集まった人々の声とともに聞こえ始め小屋全体の温もりを伝える。佐久間さんは、ここで友人知人たちを迎え、四季折々で変化する海と心地よい波音とともに格別の時間を過ごしているのだ。
そのように、海と一体化した生活を営む佐久間さんが撮る写真からは海への想いが伝わってくる。波が高く舞い上がる瞬間を撮った写真は素晴らしく過去にも雑誌に連載するなど好評を得ている。又、イラストも描くなど多彩な顔も持つ。
今回は、佐久間さんがこだわる海辺の暮らしと海遊びの魅力を語っていただくとともに、その数々の写真も一端を紹介する。後半、葉山生まれ葉山育ち生粋の葉山人として、佐久間さんに、その魅力とユニークな歴史を語っていただいた。いつのまにかオレンジの太陽が水平線に落ち静かな波の音がいっそう心地よく聞こえてきた。本当に、この人は海と葉山の生活を愛しているのだと感じた。

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貰い受けた廃食油だけで地球一周を達成した山田さんは、その後、世界での経験を国内でシェアしたいとの思いから、約2年かけて日本一周の旅を続け、112カ所で講演を行う他、循環型ライフスタイルやエネルギーの可能性に関してリサーチ活動を行っていた。この間出会った人の数 なんと 10,000人以上…驚異的なつながり力だ。
ところがその日本一周の最中、2011年3月11日 それは起こった。
日本一周のゴール間近だった山田周生さんは、岩手県花巻市東和町の自然農園「ウレシパモシリ」を訪問中に地震に遭遇した。
 地震の影響によりライフラインが途絶え、電気がない、ガソリンがないという究極の状況で活躍したのは山田さんと地球を一周したバイオディーゼルカー「VASCO-5」。廃食油を原料に、車の燃料となるバイオディーゼル燃料を作るオリジナル精製機を車の荷台に車載しているため、廃油さえあれば、自分で燃料を作り、自車に給油できる。満載すれば3000kmを無給油で走行可能なのだ。山田さんはその特徴を最大限生かして、支援活動を決意した。
 まず近所の商店街にある豆腐屋さんの廃食油を提供いただき、すぐに沿岸部の被災地の状況を確かめようと、70km離れた被災地へ向かった。それからは、毎日遅く迄、現地を往復し情報を集めては、花巻の商店街や農家のネットワークの協力のもと、必要な緊急物資を集めては送り届け、深夜までかけて自身のブログで情報を発信するという日々が続く。
山田さんが凄いのはその類い稀なき行動力で培ってきた本当のネットワーク。ブログや電話で呼びかけると、数日のうちに毎日100箱以上の物資が集まった。正確な情報コントロールのもと、水や食料、ガソリンなどに始まり、衣類、自転車、ソーラーパネル、シュラフ、テント、バックパック、など、国や県の支援でまかなえきれていない物資を必要な箇所に必要な分量だけ届け続けた。岩手県の山田町、大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市、宮城県の気仙沼市まで…。甚大な被害を受けた広い沿岸部を隈無く走り続けた。高橋尚子さんの「スマイルアフリカプロジェクト」に協力を呼びかけ、1500足のシューズも調達し全て配布した。被災者のニーズは日々変わる。4月後半に入り、惨憺たる瓦礫の山を見続け避難所での不自由な生活で相当のストレスを抱える被災者に対し、山田さんは、メイクアップアーティストやマッサージ師に呼びかけ、「心と身体のケア」を継続的にコーディネートしている他、被災したミュージシャンへ楽器を届ける「楽器を贈るプロジェクト」なども行う。被災地に活気を取り戻そうと、音楽なども交えたフェスティバルイベント開催にも着手しはじめた。
「支援」から「復興」への転換。

「被災地が希望をもって立ち上がるための提案」
– 廃食油で走る車を使った被災地救援活動を終えて-

– 地震直後の状況を教えてください。-

丁度、岩手県花巻市にある自然農家さん(ウレシパモシリ)を訪問していました。到着したのは14時過ぎだったかと思います。みそ作りをお手伝いしていたら地震が起こりました。3〜4分家がものすごくガタガタ揺れていて止まらなかったので慌てて外に出て状況を確認しました。もっと大きな縦揺れの地震が来るんじゃないかと身構えていました。

-すぐ電気、水道などライフラインは停止したわけですか?-

すぐに電気は停電しました。情報が知りたかったので手巻きで発電するラジオを持ってきて聴いたら、M8.0であることがわかりました(その後M9.0に修正)。津波が来るので逃げてくださいという放送が入っていたのを覚えています。沿岸部までは70kmほど離れていて自分がいる場所の被害は心配していなかったのですが、携帯がつながらない一般電話も繋がらない、電気も無いテレビもないという状況で、余震もおさまらなかったので、動かないほうがいいと判断。その日はロウソクをつけて待機するしかなかったわけです。
翌日、農家さんと一緒に、町へ行ったのですが、町役場では被害の様子を把握できていませんでした。次に市役所に行ったら 非常電源が確保されていて、避難している住民や携帯を充電に来ている人々がいました。そこではじめてテレビを観て津波の被害状況を確認することができました。
自分の車はガソリンが無くても走れる車なので、何かお手伝いできることはないか市の職員の方々に聞いてみたりしていたのですが、しばらく待ったものの皆混乱していて、よく分からないという返答でした。とにかく市内の信号の電源も落ちており店もシャッターを閉めたまま空いていない、交通量も極端に少なく、情報を求めて住民が市役所に押し寄せているような状況でした。

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