Nucafeメインイメージ

NU;cafe

特集 「つなぐ人」ver.001

カラダに眠るカラフルなコトバ、明日のためのリアル

山田うん ダンサー/コレオグラファー

今日は東京、明日は福島、あさっては、パリ、そして福岡….。山田うんのダンスは独自のカラフルなコーディネーションとともに不規則な起伏を回り道しながらも最短距離で平然と移動する。踊っていない時も、独特のうん節が、ブログやTwitterを経由して、やはり直感的に今この瞬間のカラダと心と環境のせめぎあいを直感的に伝える。彼女はカラダの人でありコトバの人。コトバでも踊りカラダでも喋る。幼少の頃から、その深い往復を楽しんでいる。
そして、活躍の場は舞台空間だけではない、数学者や科学者とのセッション、全国の学校での数々のワークショッップや共同制作、オリジナルコスチュームの開発。。。面白いのは、そのオープンマインドなスタイルに対して、つぎつぎと人が引っ張られていくこと。
押し付けがましくもなく謙遜もしていない。カラダとコトバが直結したフラットな地点にしか生まれない強い説得力は痛快であり、明るい振動をともなって我々の中のまだ出会えぬ自分を目覚めさせる。



民謡→器械体操→水泳Jrオリンピック選手→交通事故→リウマチ→不登校→モダンバレエ→一流企業→NY→塾講師主任→劇場の制作→フランス行き…..なんのこっちゃ??
ダンサー山田うん誕生までの、てんてこまいな生き方

ーダンサーになった経緯を聞いてもいいですか?

小学校2年生の時に、学校のおじいちゃんの先生が民謡を教えていて、やってみたら「これだ!」と確信し民謡をはじめました。そのおじいちゃんのソーラン節みたいな踊りが本当にカッコよくて勢いで小学校2年生の時に民謡をやる倶楽部に入ってしまったんですよ。
ところが、練習していたら、たまたま隣の体育館で器械体操をやっていた人たちがいて、ピョンピョン跳ねたりとか楽しそうで民謡よりたくさん動いてるなあと思って。小学校3年生からそっちに入ることにした(笑)それから器械体操の大会出たりとか。あと水泳もやっていて、Jrオリンピックに出たりしもていた。
5年生の時に交通事故にあった。車が廃車になってしまうような大きな交通事故。器械体操の練習が一切できなくなって。。。ライバル達は上に上がっていくのに何にも出来ない自分に苛立ちを感じていた。入った中学校には器械体操部がなかったりもしたんです。
そんな頃、突然関節リウマチが発病してしまった。痛くて朝起きれない。熱が出る。そんな毎日が続いた(リウマチは今でも続いている)。 雨の日になるともっと動けない。
学校にもだんだん行きたくなくなってきて、さぼったり、補導されたりもしていた。エネルギーを持て余していたわけです。だって学校行かないのヤンキーしかいないじゃない(笑)?スポーツが何もできないし学校にも行けない。そしてグレはじめた。捕まったり呼出しされたりばっかりしていて、、。ただ、医者からは、リウマチが悪化するから何か体を動かしたほうがいいと言われて。スポーツは余りにも負荷がかかるので踊りを始めました。

ー運動はリウマチにいいのですか?

痛いけど軽い運動はリウマチの進行を食い止める効果があるらしく無理なく動かせる程度の体操はしなさいといわれていた。私が悪い事ばっかりしてたこともあって、母が、「これはまずいっ」てことで、いきなり週5回ぐらい練習するバレエ教室に入れられた(軽くない…笑)。茅ヶ崎のモダンバレエの教室「山崎体育舞踊学院」です。厳しいバレエ教室で、バレエだけでなく礼儀作法とか品行方正マナーを学んだ。そこの先生は、 「踊りだけ練習しててもいいダンサーになれないの。生きる事そのものがダンスなのよ。」みたいなことを教えてくれた。
中学2年生の時。ダンスとの出会い。
始めたのはいいけど、最初から人の振付を踊るのがあまり好きじゃなかったし、カラダの関節がやっぱり痛いので、とても練習が嫌だったしダンスに全然興味をもてなかった。でも踊ることがリハビリでもあったし続けないとカラダの状態が悪化する思ったから、ほとんど脅迫観念みたいな形で大人になるまでずっと続けました。そして、短大行って会社に入ってOLになった。

ー.え….会社入った?

そう(笑)某一流証券会社。ダンスを続けながら4年間働きました。丁度バブル崩壊の頃。その後に起きてしまった事へのクレーム対応が、とにかく大変でした。他の社員も労働が辛くて病気になってどんどん辞めていった。私も辛くて辛くて…、仕事して呑んで仕事して呑んでみたいな生活。アルコール依存症だったんですよ。そしたら、膵臓とか肝臓とかがやられてきた。お酒辞めますか?人生やめますか?みたいな感じ。でもダンスだけは続けていた。

丁度、ピナバウシュとかローザスとかが日本で公演し始めた時期。
彼女たちのダンスを観て、「こんなに自由にダンスやっていいんだあっ」て感激しましたが、自分をそこに重ねてはいけないし重ねるべきではないとも思っていました。山海塾とか暗黒舞踏も知っていた。中学高校と本が大好きで、太宰治とか寺山修司の詩を読んだりしてたこともあり文学や演劇にも興味はかなりありましたが、自分と無関係な世界だと思っていました。
ところが24歳の頃、なぜか、その点と点が突然線になったような気がした。
どうせなら自分のカラダを使って探してみたいと急遽会社を辞め、翌日にはニューヨークに飛び立った。ニューヨークでは、毎日毎日レッスンに通った。マース・カニングハムスクールとか、リモンテクニックとか、アルビンエイリースタジオとか。夜は、ジョイスシアターに通ったりして、ニューヨークのダンスシーンを見まくりました。ビザなしで3ヶ月の滞在。しかし、ワークショップ行ったり公演ばかり見にいってたら、お金がなくなって栄養失調気味に。胃潰瘍が3つできて、結局日本に強制送還(笑)。

Pages: 1 2 3 4 5 6

[ NU;cafe ] クリエーター・インタビュー

踊れて弾けるダンスがいい!

KENTARO!! (ダンサー/コレオグラファー/コンポーザー) 

コンテンポラリーダンスの世界で独自の路線を突き進むKENATARO!!。
もともとHIPHOPダンサーとして数々のショーステージを経験してきた彼のダンステクニックは、当初、コンテンポラリーダンスの中で異色と見られながらも、独特の弾き語り風な世界観で構築される作品性とその存在感が高く評価され、2008年,横浜ダンスコレクションRにて最優秀賞の受賞以来、国内でも海外でもその勢いは増すばかりで、ダンスでは珍しい2週間のロングラン公演、ミックスカルチャーイベントのオーガナイズ、若手のダンサーを育成するためのキュレターなど、ダンスという分野全体の活性化にも切り込み続けている。
”唄あり踊りあり芝居あり”最大の特徴は、すべて自分でつくってしまう詩と楽曲の面白さ。自身は「まだまだ素人なんで」と謙遜するが、ミュージシャンがつくろうとしても、なかなかつくれない独特の身体性・日常への視点に根ざした繊細でユニークな空気感を伝える。
公演後の物販では、その反響が如実に現れ、相当数の観客が踊りの印象とともにCDを購入していく。
今回は、KENTARO!!を直撃し、その作品性と音楽性、そして今後の行方について聞いてみた。


1、残る作品をつくっていきたい

ーkentaro!!くんといえば、ダンスだけじゃなくて作品の振付家でありイベントオーガナイザーであ、キュレーターでも活躍していますが、もともとはHIPHOPダンサーですよね?

小学校の頃にダンス甲子園を見てブレイクダンスをやりたくて、中学校の頃にダンス教室を見つけて、それ以来続けていますね。そこはブレイクダンスじゃなくて普通の立ち踊りでしたが。
仕事としてのレッスンはHIPHOPを教えています。たまに作品つくる時に関連して、HIPHOP以外のコンテンポラリーダンス的作品を作ったりもします。

ーコンテンポラリーダンスへの転機は?

以前はレッスンしたりたまに振付したり、ストリートダンスイベント(CLUBなど)で踊ってギャラをもらうというサイクルでした。
色々な仕事をしてきたんですが、それだと作品を残すことにならないと感じて。そんな時にソロダンスをやりはじめました。それからコンテンポラリーダンスが少し気になって、、。
観はじめたのは23,24歳ぐらいの頃。20歳の時にも勅使河原さんの舞台見て、その時は、「ヘンなダンスだなあ」と思って特になんに感じなかったんですが、何年か経ってまた色々見だしたら実は様々なダンスがあって。割と踊っている人の内面が出ているっていうのが、すごく新鮮で、、無音で踊ったりしてるのが、カルチャーショックでしたね。

ーHIPHOPだと、基本、音に合わせますよね。

踊らないところが、逆に良く見えたりするってことがあるっていうのが、演劇的でもあって勉強になりました。もともと、ワンマンライブをやりたいと思っていたのですが、構成するうえでは、瞬発的なショーだと間がもたないなので、すごく参考になりました。

ーコンテンポラリーダンスの中でHIPHOPって初めてでしょ?

HIPHOPという型をもっていて作品を作るダンサーとしては、一番認知していただいているとは思います。最初始めた頃は、どう評価していいか分からないとか、ただのHIPHOPだとか言われてそこから賞とかとって、やや変わっていきました。

ーダンス作品で一番大事にしていることは何ですか?

最近、その時々で変わっちゃうんですけど、1番思ったのは、コンテンポラリーダンスは踊れる作家と踊れない作家は違うなと。踊れる人がつくる作品は、踊りたいからつくっているわけで動きのあるもの、踊れない人がつくりたいものは動かないものという傾向がある。もちろん例外は沢山あります。で、どっちがいいのかなと思うと僕は単純に踊っていたいし作品もつくりたいんですけど、大事なのは、やりたいことをどれだけ伝えることができるかということなわけで、運動量も大事なんですけど、それをただ踊っているだけじゃなくて、どう作品に変換していけるかって事が大事です。

1時間ならショーではなく絶対作品にしたいですね。見終わった後に、楽しかっただけじゃなくて、物語じゃないですが、自分の人生を重ねてとらえられるものとか、、多分かっこいいとかだけだと、いまいち、そこが伝わらないですよね。そこを意識しています。
作品性と踊りたい衝動とのバランスですね。

後々残っていくダンスをつくるなら、テクニックとして残すというよりかは、最終的には作品を残したい。いまのうちに踊れる作品はつくって、40、50歳になったら、踊りはやってても踊らない作品とか映像作品とかバンドライブとか、そういうのも目指したいですね。

Pages: 1 2 3 4 5

「破壊の暗闇から世界にアピールせよ!」
– 震災とEMERGENCY WORKSHOP-

5月10日から20日、六本木ヒルズ40Fアカデミーヒルズ特設ルームにてダイアログ・イン・ザ・ダークによるエマージェンシー・ワークショップが開催され話題を集めた。ダイアローグ・イン・ザ・ダークは、”暗闇”という特異な空間を通じてヒトの本来的なコミュニケーションを伝えてソーシャルエンターテイメントを提供するプロジェクト。今回はイベント直後に、DID代表 金井真介氏を直撃し、震災後のDIDの対応と今回のワークショップに至る経緯、そして今後の日本が向かうべく方向性について語っていただいた。ひとつひとつの言葉を慎重に選び、理路整然かつ熱く語る姿からは、視覚障害者たちとともに、ひとつひとつトライ&エラーを繰り返しながら、社会にとって大切な場をつくり着実に実績を残してきた自信が説得力をもって伝わってきた。特に、起こってしまった震災と被災者に向けて、今後、日本人は何をすべきかについては、しばらく沈黙があった後、独自の視座からの意見を切々と具体的に語っていただいた。

※ 体験記は、特集02 「暗闇で考える」に掲載。

– 今回の DIALOG EMERGENCY WORKSHOPは、通常のDIDプログラムとは異なり、3・11の震災を意識したものであり、災害時の対応の要素が強く現れていたと感じました。-

(実はまだDIDを体験されていない方もいるかと思いますので、)DIDについて説明します。DIDは、22年前にドイツで始まったイベントで、もうすでに30カ国600万人ぐらいが体験しているソーシャルエンターテイメントと呼ばれるプロジェクトなんです。個人の楽しみだけではなくて社会の何かをよくする方向に繋げようということでして、人と人が助け合うとか人がいて良かったなあと思えることを暗闇の中で実感するプロジェクトでもあります。
日本では1999年から始めており、これまでは単発のイベントとして続けてきたのですが、2年前か東京の外苑前に拠点を設け長期的な視野のもとに運営しております。
コンセプトは大きく分けて3つあります。
ひとつは、完全な暗闇を提供していること。
ふたつめは、グループで体験すること。内部には森、都市、カフェだとか様々なしつらえが施されており、日常の体験を視覚以外で体験できます。
3つめの大きなコンセプトとしては、暗闇の中で誰しもが視覚を使わないで対話していくわけですが、なかなか普段通りに動けないわけですよね。その参加者達を誘導するのが実は視覚障害者だという点です。障害という言葉はどうも腑に落ちない気持ちがするのですが、”普段から目を使っていなくて快適に過ごしている人”をトレーニングしていただいて参加者を誘導しながら楽しんで頂くというエンターテイメントであるわけです。
3月11日は東京でもずいぶん揺れまして、その時に凄いなと思ったことがいくつかあったのですが、視覚障害者の方々って地震はあまり好きじゃないんですよね。ここにあるものが右や左に移動してしまうと空間の把握にずれが生じ把握できないので、どちらかというと揺れるのはあまり好ましくない。
ところが丁度その日に、ドイツから視覚障害者のトレーナー(女性)が来日してDID Japanで研修中だったんですね。彼女は初めて地震に遭い
津波という言葉を聞き、もう凄く怖かったらしいんですよ。で、その彼女に対して日本の視覚障害者のアテンドたちは、「日本は火山国で毎日揺れてるんだから仕方が無いよ!」とか原発の事故に対しても「よくあるんだよ!」といっていて、ドイツの方を勇気づけようとしていたんですよね。これに対して自分は驚きました。彼ら(視覚障害者のアテンド達)はどちらかというとこれまでの人生で辛いことも多かったろうし社会的マイノリティであるが故にいろいろな経験をこれまでもしてきたと思われるのですが、その一番の経験者達が一番怖がっている人に寄り添う力を見ていて凄いな!って思ったんですよ。
地震後は、なかなか社会的にもDIDを続けられる空気ではなかったので、1週間だけお休みを頂いておりました。この期間にアテンドたちは、こんな不安な東京でDIDを続けるのは非常に困難なので、実家に帰るかなど実際に話し合ってみたら「帰りたくない!」ということでした。どうしてかっていうと
確かに実家に帰れば安心安全なんだけれども、自分の能力をもってして社会に関わる仕事はないと口々に言われました。要はDIDにいると”見えないからこそ”普通の健常者よりも秀でた能力を職業としてできることはないから帰らない!!と言われました。じゃあ、やろうということで1週間後の18日からすぐ再開したわけです。再開してみると、今度はお客さんから学びがあって、実はキャンセルや払い戻しがあって困難な時期があったんですけど、福島の被災地から東京に避難している方がいらして暗闇で気づいたことがあったようで、「やはり自分は故郷が好きだから故郷に戻って復興の手伝いをしようと決めました」と言って帰られたわけです。あとは仙台の方で、「もしゆくゆく復興後東京に来れる機会があったら、最初にDIDに来たい!」とか…。そうか、なんか求められてるんだなあっていうことがあえて分かったのです。
もうひとつは、これまでの12年間で実は約75,000人が体験されているわけで、しかも1ユニット5〜8名での体験ですから、粛々と繰り返してきたわけですけれども、その75000人の人々に対して3月12日にTwitterの中で、「暗闇の中で気がついた声を掛け合うこと、助け合い協力することを今こそ明るい中でも実践してみましょう」とTweetしたらものすごい数のリツイートがあり、DIDを思い出したよ!って返事が被災地から東京から返ってきたわけです。
だから人はこれまで当たり前だと思っていた時には気づかなかったような何も価値を生まなかったような”目に見えない価値”が、もう一度ここで大切であるということを一瞬にして皆理解していました。
じゃ、ダイアログで何かできないかと始めたのが、このEMERGENCY WORKSHOPの発端なんです。

Pages: 1 2 3 4 5






2002年より TYG(設立時の名称は(有)tokyo-yoga.com)を設立し、『東京から伝えられるリアルなYOGA』をコンセプトに、YOGAスタジオの運営だけでなく、フリーペーパーYOGA YOMUの発行や先鋭的なYOGAセッションなど、ビジネス/コンテンツ 両面から 常に前を走り続け日本におけるYOGAをめぐる場づくりと普及に努めてきた YOGA インストラクター chamaさん。
今回は、東京ミッドタウンで約600名を動員し開催された YOGA Aid challenge 2011でのセッション後を直撃し、そのアクティブな側面を取材してみた。


– お疲れさまでした! ものすごい人数でしたね。–


いろいろあった(震災)から心配してましたけど、今回4回目で、600人以上、来てましたね。バックステージから見てたんですけど、かなり気持ち悪い?ぐらいの光景でした(笑)

なんで、この人たち踊ってるんだろ?って感じ(笑)
とにかく盛り上がってましたネ


– 人種、年齢層が幅広かったような…–


そうですね。ここミッドタウンということもあるかもしれないですけど、いろんな人が集まってきますし、普段YOGAやってない人も来てました。でも、今日は、特別、身体動く人多かったですね。最近、このイベントに参加される方は、意識が高くなっています。


– 全体のプログラムの流れが盛り上がる構造だったような..–


以前までは、出演する直前まで順番を決めていなかったから内容を構成しようがなかったのですが、今回は、けっこう前に、出る前に順番が発表されたんで、インストラクターの方が皆つくりこめていましたね。


– 生演奏とコラボした経緯は?–


津山さんは以前僕のヨガクラスに来てくれてて、6年前2005年2月にYOGAブランドのショップオープンをきっかけに音楽ユニットを組ませていただいたんです。僕がYOGA体操のデモンストレーションをして、その後にマントラを唱えながらバックで津山さん達のバンド5名に演奏していただきました。

今回は、久々にその感じをやりたかったんですよ。

音楽は、言葉とか視覚よりも人をいざなう力が強い。
いろんな人にYOGAに触れてほしい。きっかけづくりが大事です。より多くの人や幅広い層に提供していくためには音楽とYOGAを掛け合わせていくのがよいかと。


– 今日見ていて、chamaさんのパートだけ、ライブで音を出していて参加者もやりやすかったように見えましたが、–


Djの方と何回かセッションしたことがあるんですが、音楽の順番や時間も決めてやったので、やや不自由感を感じていました。
以前、僕もclubを運営しており、アナログのレコードを自分でも回したり、生でペースを変えたりその場にあわせて曲をセレクトしていたので、(その方法に)違和感を感じました。

ライブで参加者の皆さんと時間を過ごす時に、音楽のライブであれば、聴きにきた客が一緒に身体を動かすということはあまりないですけど、YOGAの場合は、まず身体ありきのライブセッション。より気持ちよく身体を動かしてもらうためには、よりファジーなリズムシステムが必要。

メイン=主体は、あくまでも参加者。スピードを変えられたとしてもアリモノだと、どうしても音のほうに合わせるような、硬直した空気感になってしまう。

津山さんと6年ぶりに会って、やっぱり、生でやったほうがいいんだろうね!ってことで意気投合しました。生でやるのは、大変だけど、やっぱりよかったですね。
しかし、いい気が流れていましたよね。



-コンダクター(指揮者)の立場に似ているかなと –


そうですね、、
参加者の皆さん自身の身体が楽器だと思って、参加者の方が自分の体を演奏するのをガイドしてるって感じです。
前に出て拍子とってる時も、参加者の方々にとって丁度いいところっていうのを、受け身で感じてナビゲーションしています。



Pages: 1 2 3