ー特集・連載ー 「やっぱり海、それでも海 PART3」
時代と呼吸し続けること
– 海に開かれた無国籍ラウンジOASISが切り拓いた地平 -
OASIS 代表/葉山芸術祭実行委員 朝山正和さん
夏の期間、葉山森戸海岸に突如として現れる無国籍ラウンジ。店内は多様な老若男女な客で溢れかえり、波音をBGMにオーガニック料理と世界各国の酒を楽しむ。ステージでは、毎晩のように、やはり無国籍にいつまでもライブ演奏で盛り上がる。ここはどこ?ここは何?
仕掛け人は、朝山正和さん。30数年前に葉山に移住。建築家を目指しながらも、より自由な表現空間を求めていた朝山さんの才能は葉山で一気に展開した。戦前から独特な発展を遂げた葉山の豊かな自然と朝山さんの発想が結実したのだった。海の家の運営をはじめると、旅人やアーティスト、地元の若者が、その居心地のよさに集うようになる。次第にオアシスは、地域と密着しながら育ち、文化の交流発信拠点となっていった。その後、朝山さんは、そのネットワークを生かし葉山芸術祭に新たな切り口を提案するようにもなり、地域文化のキーパーソンとなっていった。
今回は、ひと夏の海の家に全力投球し、クールダウンしながらも早くも来年の芸術祭やOASISのプランを目論み始めた朝山さんのアトリエを訪問し、伝説と化した海の家OASISの話を中心に、芸術祭や、海辺の魅力について語っていただいた。
OASIS @flickr
「OASIS をはじめた理由」
ー オーガニック+エスニック+レゲエ ー
ー 葉山に来る前は、どういった活動をされていたのですか?
東京の大学で建築科の学生をしていました。卒業した直後から、なんとなく海の近くに住みたいと、茅ヶ崎とか二宮あたりの物件を探していた時、葉山町の垢抜けた空気感が気に入り、都合良く好い賃貸も見つかった事が理由です。知り合いが居たとか、葉山を調べてということはありません。全く偶然でした。
引っ越し後、仕事は直に見つかりました。大学の先輩の紹介で、逗子で商業建築を手がける矢野真さんの仕事をアルバイトとして手伝うようになりました。もともと建築を目指しながらも図面を描くのが嫌いだった(笑)ので、矢野さんのフリーハンドなスタイルが面白かったです。
当時は、鎌倉付近には戦後を創った、文学者、アーティストなどインテリ層がまだ多く住まわれていて、矢野さんが、親しい澁澤龍彦さん(*注1)、田村隆一さん(*注2)、辻村寿三郎さん(*注3)らの交流の場に、僕も度々連れて行ってもらい、刺激的な話に耳を傾けていました。社会生活の始まりがそんな感じで。
ー なぜ海の家をはじめるようになったのですか?
逗子の商店街を抜けた突き当たりにある陰陽堂(*注4)という自然食品屋の主人の宇野さんが僕ら、暇人(笑)数人に声かけてきて、「海の家やらないか~?」と誘われ、即「やります!」って気軽にいってしまったのがきっかけです。1981年の話です。
一緒に働くことになった仲間たちは、当然自然食だったし、アジア中心の旅好きであり、エスニック料理好きであり、音楽好きでした。レゲエ音楽はまだ日本に浸透しはじめの頃で、そのゆるさ、米英音楽とは違うオリジナルさに惹かれていました。仲間の一人、デザイナーの真砂(*注)は、大学の同期生なんですが、バリ島帰りでした。彼の提案で建物は葉山の竹を使って作ることにしました。そうしてスタイルは自然に決まりました。30年経った今も、基本的にやってることが同じですね(笑)
今では「オーガニック+エスニック+レゲエ」は自然な組み合わせに感じられるでしょうが、当時はそのひとつひとつの概念すらまだなくて、だからその時代にOASISは相当珍妙な存在だったでしょう。まだ森戸海岸には、27軒の海の家があり、ひしめき合っていたのですが、その中で旅人とレゲエ好きが集まる自然食のカフェは異色を放っていたでしょう。あまり人が寄りつかなかった(笑)。もちろんカフェという言葉もなかった。
OASIS @flickr
(注1:) 小説家、仏文学者、評論家。アヴァンギャルドな思想と作品で同時代を生きる多くのアーティストに影響を与えた。
(注2:) 詩人、随筆家、翻訳家。詩誌『荒地』の創設に参加し、戦後詩に大きな影響を与えた。
(注3:)人形作家、人形操作師。アートディレクター。
(注4:) 逗子にある自然食品店。40年以上前から食の安全を提唱している。
(注4:) 真砂秀朗 アーティスト・ネィティブフルート奏者 http://www.awa-muse.com/about/profile.html