biodieseladventure

-まさに山田さんが常々仰っているように「地震や大事故などが起こってエネルギーの供給が止まってしまったらどう対応するのだろうか?』という、近年の日本で見られない規模の災害が起こってしまったわけですが、そこからの対応はどのようにされたのでしょうか?-

行政や町の機能も麻痺していて、被害状況がよく把握できなかった中、地元のラジオを聞いていたら被災地の避難所では食料や燃料などの物資が足りていない寒さに震えていると聞き、3日後の14日に、農家や周辺の方々の協力を得て、その日の昼頃から農家のネットワークで集めた物資を持てる物だけ持って「とにかくまずは行ってみよう」ということで被災地である釜石市方面に向かいました。途中検問もありましたが、「緊急物資を運んでいます」と伝えると、通してくれました。事前にラジオで知った市内のいくつかの避難所の名前と場所を調べていたので、まずは、そこを訪問してみました。途中、一軒家などもノックしながら 「大丈夫ですか?」と安否を確かめて歩きました。釜石駅付近で、ひっくり返った無数の車と瓦礫の山を目撃。高台に通っている線路を見ると線路沿いに歩いている人たちが見えた。一緒に歩いて海のほうに向かったら、、両サイドに市内の様子が見渡せました。そこで初めて街が甚大に崩壊している実態が分かりました。
そこから避難所を回り何が足りないかを聞いて歩きました。そして被害を受けた商店街を歩いて巡り、花巻で頼まれていた人の捜索を始めました。

-当時はかなり寒かったということで活動にも困難をきたしたと思われますが、、まずは、何が実際に足りないかという情報を探し始めたということですか?-

そうですね。実際に行ってみてはじめて具体的に分かった情報をもとに、翌日には、物資を集め、確実に届けるということの連続でした。往復4時間かかるので、物資を午前から集めていると、結局届けるのが夕方近くになってしまうんですね。
集めるにあたっては、その当時、多くの商店が閉まっていて、空いている店を探している間に日が暮れてしまう。
そこから2時間かけて沿岸部へ行くと、結局は夜の22時ぐらいまで行動して、マイナス7度の雪が積もった峠を超えて帰ってくる。農家に戻ってくるのが夜中の24時過ぎでした。

-物を集めるにはどのような方法でされたのでしょうか。-

農家さんのネットワークとその知人関係を頼りました。農家さんに相談すると、米や水、味噌などたくさんの物資を快く協力してくれました。商店街(東和町土沢商店街)の酒屋さん、靴屋さん、薬局屋さんなども、物資を提供してくれました。途中の遠野市の農家さんや牛乳屋さんも協力してくれました。
支援活動をしている中で出会う方と「あそこではこの物資が不足している」などと情報交換する。その積み重ねで情報が集まるにつれ、物資も集まっていきました。
そしてそれらを運ぶ、僕らの燃料もご協力頂きました。震災後2日目の13日に、商店街の豆腐屋さんから廃油を70リットルほど分けてもらい、燃料作りもすぐに始めることができたのです。
当時はガソリンがなく、道を走る車といえば、自衛隊の車両、消防車、緊急車両、と認定された車両のみでした。その中で廃食油さえあればバイオディーゼル燃料をつくって走れる車は貴重でした。
被災地では、「(ガソリンもない中)どうやって来れたのか?!」ときょとんとしてまして、皆さんに対し、「てんぷら油から燃料をつくって走れる車なんですよ!」と説明すると「えー!?」と驚かれましたね。
あと、「ここは危ないから帰りなさい!」と言われたり..,(笑)


被災者の皆さんからは、具体的に灯油等、必要な物資を届けてほしいとのお願いをされました。そうやって、本当に必要な情報を得てきたわけです。

-初期に必要だったのは、やはり食料ですか?-

食料、衣類(特に防寒着)等ですね。着の身着のままで津波から逃げた方ばかりで、長靴と着の身着のままの衣服1枚しかないわけですから。寒さが厳しかったので、防寒着とか毛布とか、お米、みそ、水、卵、パン類、などの食料、それから、灯油など厳寒の中で生き続けるのに最低限の状況を確保するための物資が急務でした。

-日にちが経過する中で、当然、国や県からの公的支援があったと思われますが、その中でも各所で不足しているものがあったと思われますが、、-

避難所では下着や入れ歯洗浄剤といった生活物資など。納棺師の方は死化粧用の道具が欲しいとか、想像している事以上にいろいろな物が必要でした。薬ひとつでも、○○用のコノ薬が欲しいだとか、やっぱり聞いてみなくては分からないことが多かったです。

-最初は口コミで集めた物資だったと思われますが、その後ブログでも物資や支援を呼びかけていましたよね。-

震災後、一週間以内にブログで情報を発信しはじめました。足りない物資の情報を掲載したら、毎日のように100箱ものダンボール箱が全国から届きました。ひとつは、自然農を営んでいる農家さんのネットワークが大きかったのと、もうひとつは、僕が2009年から日本一周している中で九州や沖縄から北海道まで、繋がりをもった方々からすぐに野菜などを届けて頂きました。とてもありがたいことでした。