un_yamada

ソロ作品がフランス大使館賞、ダンサーとしての運命が決まった

ーカラダの病気とか怪我がつきもの?ー

そうそう、つきものなんですよ。
でね、帰国してから当然働かなきゃいけない状況でもあって…、辞めた会社からも戻って来いと声を掛けられたのですが(営業成績がトップクラスだったららしい。すごい!)、もう管理されるのは嫌だって思って、近所の学習塾の講師になりました。そしたら、その塾の系列の分校がやばいからお任せしたいと急に言われて、いきなり2つの学習塾(茅ヶ崎と平塚)をキリモリする先生になっちゃった(笑)。2つとも小学校1年生〜中学3年生までの20名ぐらいの生徒。そこで教えながらも、さらに昔通ったモダンバレエのスタジオでも講師もし、早朝は料理屋さんで厨房の仕込みの仕事をしたりとか働きまくった。とにかく公演を打ちたかったんですよ。

ーニューヨークにいる時点でソロ公演はやりたかったんですか?

そう、何か自分でつくりたかった。バレエ教室で教えてれば稽古場も使えるし、塾も広い教室を使っていない時に自分で動けたりするので練習できた。あとは、体育館のおじさんと仲良くなって借りたリとか。

そういうふうに一人稽古を繰り返しながら、ついに96年にSTスポット(横浜)で初めて自分の振付作品を発表しました。それがきっかけで、当時、STスポットを運営していた岡崎さんから、「あんた、作品はボロボロだけど、なんか仕切りがいいからうちで働かない?!」ってなぜか言われて、そこのダンスシリーズ企画室で企画をすることになった。時給500円しか渡せないし交通費も出せないけど、ホールが空いてる時間は自由に使っていいから!って言われて。音楽家とか落語家とかいろんな人と出会って制作をどんどん学んでいった。
丁度その頃は、STスポットでラボ20っていう企画を始めたし、神楽坂のセッションハウスや、長谷川六さんの企画とか、日本のダンスシーンで新人発掘の企画が各地でスタートした頃。私もそれらの潮流を渡り歩きながらも、STスポットの制作の仕事を続けていたのですが、2足のわらじは無理だと思い。1999年に制作に専念することを決意し、文化庁の国内インターンシップのアートマネジメント部門に申請してあちこちの劇場で研修しました。秋吉台の芸術村とか当時大阪にあったダンスボックスとか。ダンスの企画をしている劇場にお世話になり、これからどういう企画をしていったらダンスシーンが盛り上がるのかとか、日々リサーチと研究をしていました。
ダンスをもうやめるし自分で最後のソロ作品をつくろうかと思い「duo」という作品をつくり横浜ダンスコンペティションに出したら、なんと賞をとってしまった。「若手振付家のためのフランス大使館賞」という賞で副賞がフランス行きだった(笑)。STスポットも辞め、ダンサー、振り付けとしての道が急に開けた。

ー以降、何作品ぐらい制作したのですか?

ソロとグループで15ぐらい、2002年以降はカンパニーで15,16全部で30ぐらいです。2001年に丹野賢一さんと全国(札幌、大阪、沖縄、名古屋、東京)ソロツアーも行った。お互いソロのピースを10個ぐらいもって最適な組み合わせで上演する。

ー 丁度、日本でコンテンポラリーダンスにおいて、全国にわたってソロ作品の市場が出来上がりつつあった頃ですよね?

そうそう。
私は、足立智美さんというミュージシャンとVACAっていうユニットをやっていて、それは、海外で人気があってドイツをメインにヨーロッパを回ったりしてました。

カンパニーCo.山田うん がスタート
自分らしさ自分の場所を見つけるための選択


2002年になり、コンセプチャルに新しいことを表現するのではなくて、もっと踊り自体を追求してみたくなってカンパニーCo.山田うんをつくりました。

ー作品をつくってみたくなったということですか?

以前は新しい表現をつくりたいと思っていたんですよね。でも世界中どこにいってもいろんな新しいものが出ていて新しいものなんかどこにもなくて、自分が興味があるものがそういう新しいものではなかった。
ものをつくるコンセプトとかシステムとかって何だろうって考えていたら、もっと自分の”本当の踊り”とか”生きる”っていう部分に戻らないと何もできないんじゃないかって思って….、自分のカンパニーをつくって賛同する人たちとがっちり向き合って踊りをつくってみたくなったんです。