OASIS_Masakazu_ASAYAMA

「赤字からの脱出、、そして新たな段階へ」

ー 順調な滑り出しでしたか?

 人が寄りつかなかったんだから、順調ではないでしょう(笑)。以降10年間、一般的には理解されず極端に赤字続きでした。それでも、コアな仲間、友人たちと夏を共に過ごす居心地の良さ、そこで起きるドラマと受ける刺激、そうしたことはとにかく楽しく、どうしても止められなかった。毎年、今年は誰が赤字の責任をとるかが話題でした(笑)。
 海の家の柱を立てる穴を掘りながら、なんで(国立大學出の、野心溢れる僕等が)こんなことやってんだろうって、暑さにボーッとしながら思ってた(笑)。

でも、何年もそういう事を重ねるうちに解り始めたのが、自分たちのやってることはCLUB的な何かだと。

OASIS @flickr

ー え? 当時日本には、CLUBなんてなかっですよね。90年代初頭までディスコばっかりでしたけど、、

 クラブカルチャーの意味でね。ディスコのように踊るだけの空間じゃなくて、ライブ音楽も聴けて、客同士、客とスタッフが気軽にコミュニケーションできるラウンジであり、食べ物も食べられる。毎日、集う仲間がいて、ふらっと来た旅人も自然に受け入れ、その集まりから生まれるメッセージ、ミュージック、アートやデザインがあって。それがみんなが集まる夏の海に…、それはなかなか理解されなかった。

ーオリジネーターですよねえ〜、赤字を脱した転機は、何かあったのですか?

 90年代にシンジとタンコ(*注6)達が入ってきました。彼達は今はダンスホールレゲエバンド”HOME GROWN“(*注7)として知られていますが。とにかく自力で音楽をやれる環境をつくろう、お金を稼ごうと。いわゆるポジティブだったんです。ポジティブ・バイブレーション。(レゲエ用語ですねー)

 それまで、OASISには、いわゆるアーティスト的なタイプの人間が店長やスタッフを務め、アート的にゆるゆると時間を過ごす感じだったのが、タンコ達は各役割ごとにイメージを持って、運営責任を果たし、でも毎日一緒にいる雑談の中で協調していくという、まるでバンドのような運営スタイルを創っていった。

 今に引き継がれるOASISの運営スタイルが始まったのは、そこからです。自立心とチームワーク。店内もいくつかのエリアごとに独自の色があるでしょう。だから、集合的スラムに見えるんですけど、運営はひとつなんですよ。

OASIS @flickr

ーそれは、いい発想ですね

 海の家を建てるのに、1ヶ月ぐらいいつもかけて作ります。山に竹を切りに行ってから始まるのですが、本当はもっと速く建てる方法もあるけど、そうすると外注がどうしても増える。その話しをタンコにしたら「みんなの日当になるほうがいい」と言い、建築家の僕にとってはユニークは発想だった。それから今まで、自分たちでできる事はなんでも、現場で作っています。
 運営でも膨大な作業をしてて、だって全部あそこで作ってるんですもんね。カレーの仕込みにはじまって…、。今年はキムチを仕込もうかっていう話もあって、さすがに止めたけれど(笑)

 どこまでやるの? 僕等は何をしてるんだろう!?ってスリルと共にやっています。お客さんが多いから、めちゃ忙しいけれど、スローなスタイルです(笑)。

・・・ ライブスペース、バーが2つ、ラウンジ、今年は弓屋も加わってと確かに今のOASISはいくつかの店が集まった集合体のようだ。・・・

 地域密着型のスタイルをとり始めたのも、90年代からです。バーカウンターを海側に設けると、通る人との会話が増え、そしてOASISは活気を見せるようになりました。当初は怪訝そうに距離をもっていた葉山の人たちも、オープンでポジティブな雰囲気の空間に、次第に慣れるようになりました。

OASIS @flickr

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(注6:) シンジ:HOME GROWNのパーカッショニストであったが、2011年7月に惜しまれながら他界。海の家OASISとともに生きてきた人間のひとり。

(注7:) タンコ:HOME GROWNのリーダー、90年代のオアシス店長

(注8:) HOME GROWN:ジャパニーズレゲエを支えるナンバーワン・ダンスホールレゲエバンド http://www.homegrown.jp/news/index.html