issue-002 RE-THINK IN THE DARKNESS

震災後、2つのことの対応に試行錯誤していた。
ひとつは、生まれてから18年を過ごした実家、陸前高田市が壊滅してしまったこと。
ふたつめは、昨年11月から取材して制作していたテレビ番組「てんぷら油で地球一周」のオンエアーが目前に迫っていて、山田周生さんに最終の確認をとらねばならなかったこと。
いずれも、目指すべきは被災地 岩手県。一刻も早く飛んで現地入りし自分の目で確かめたかったのだが、当時は往復1100kmもある岩手までの距離を往復する分のガソリンを入手する術もない。電車は不通。バス、飛行機は満員。


半ばあきらめかけていた3月17日 山田周生さんと深夜スカイプで連絡をとることができた。
「WVOという廃食油を再生させた燃料で車を動かすグループの人たちが救援に来てくれることが決まったので、それに乗せてもらえばいい」
願ってもない方法を得て感謝の限りであったが問題は帰京する日。WVO車は、約1週間は現地に滞在するようだったが、
僕はどうしても22日16時には都内に到着し番組をフィニッシュさせないと間に合わない。翌日、早速WVOの東京リーダー山野さんの携帯に連絡し相談した。するとなんと、もう1台長野から行くWVO車があり、岩手から戻る日を調整してくれるという。1週間悩んだことがたった6時間の間に見事にクリアになった!! 翌日、そのことを仲間に連絡したら、近隣の飲食店に廃食油回収のお願いを回し廃食油100リットルも確保してくれた。


20日早朝 WVOと合流。すでに車の積載部分は、全国のWVOネットワークで集まった廃食油、BDF、石油、食料、日用品…と救援物資がこれでもかと満載。一般からではなかなか許可がおりない「救援車両」で登録済であったことから、一般道ではなく東北道を走ることができたのも驚き。あまりにも迅速なWVOの行動に正直呆気にとられながら、車は出発。


急速な補修をした東北道は、ところどころで大きく歪んだり、ズレ、隆起、欠けが目立つ。
ひっきりなしに通る、全国からの消防部隊、救援トラック、救急車。PAでは、自衛隊の車両でびっしり、、
あらゆる状況が不穏だ。そんな中、WVO車は、不快なガソリンの匂いではなく”テンプラの香ばしさ”を漂わせ普通車と同じようになんのトラブルも無く快調に走る。8時間後、無事、花巻市東和町の自然農家=ウレシパモシリに到着。
山田周生さんは、いつものように笑顔で迎えてくれた。
夜、全てオーガニック栽培で大事育てられた食事を美味しく頂いた。食後は、すぐさま、翌日の救援活動についての会議。緊張感がみなぎる。震災直後からこの場所を拠点に約70km離れた沿岸の被災地を往復していた山田さんは、今何をすべきかを熟知し的確なコントロールをしていた。そして、ウレシパモシリ酒匂さんも又、震災直後から地域の人々や商店街に呼びかけ、時には自己負担もしながら足りないものを集めては山田さんと共同戦線をはっていた。ノートには、それらの記録がびっしりと書き連ねられている。打ち合わせの結果、翌日は、大船渡市に不足している死化粧道具を届けること。釜石市でガソリン不足により足がないため遺体を確認できていない遺族の人たちの送り迎えをすること。そして陸前高田市の数カ所の避難所に頼まれた物資を届けること。その中には、ウレシパモリが提供する多数の有機鶏卵も含まれていた。


翌日、荷物を積み2台の車が別れて各エリアで出発。もちろん、いずれもガソリンではなく「廃食油」から精製された燃料で走る車両。当時の被災地はガソリン車は緊急車両以外はほとんど走れていない。朝、ウレシパモリさんから、玄米と胚芽米、自然鶏卵のお弁当もいただく。これも、もちろん自分の家で採れたものばかり。3人の子供がニコニコ見送ってくれた。みんな野生児ながら素直な子供たちで元気。


種山を超え住田町へ。いつもとも、故郷に入る心境が全く違う。見たいような見たくないような微妙な心理。そ果たしてこんな時にカメラを回すべきなのか、荷物を運ぶべきなのか、、複雑。そんな想いを巡らすうちに、ついに大船渡市三陸町へ。想像以上にめちゃくちゃになっている港付近を車から眺める。
とある農家に人を連れていく任務。震災時長崎にいたこの農家の娘婿は、ヒッチハイクでようやく花巻にたどり着いていて、家のある越喜来地区にようやく、その時帰れた。無事の再会に喜ぶ家族。その家も放し飼いの鶏卵農家で被災のひどかった地区の人たちへと200個もの鶏卵をくれた。被災者が被災者を援助する状況。「みんなこうやって助け合うのが当たり前のこと。これでようやくまともに戻った。これまでの生活は贅沢しすぎたのかも..」といったその家のおばあちゃんの言葉が印象に残った。


大船渡市の中心へ。3年間高校に通った街は、街道沿いに無惨な光景が広がっていた。「靴ください」の立て札、寒い中灯油10Lの確保に並ぶ人々…そして瓦礫の山…。
お寺に納棺士を訪ねる。ここにも多くの遺体が安置されているという。結局、情報が錯綜しておりお寺のほうでも納棺士とは連絡がとれていないようで、とりえず預かってもらう。市役所(災害対策本部)へ。掲示板で人を捜す人々、救援物資をもらいに来る人々。山田さんは災害対策本部の担当の方とどこに何が足りないのかを入念にリサーチ。市側でも情報を確保できていないエリアを聞き出す。山田さんが注力していること。何が必要かは刻一刻と変化しており、場所によっても必要なものは異なる。
また街道沿いを走る。「どこに線路があるのかわからない…」。数体の屋根、棟ごと浮いている湾内。明らかに陥没していて水準点0になった岸壁。陸前高田市小友町から広田町へ。ここは父親の生家があったので毎年よく行った。ここも、無惨。湾曲する線路。泥沼と化した広い田園。昨年泳いだ海水浴場の青い海も白い砂浜もみじんもない。広田小学校の校庭は自衛隊の車両。焚き火で呆然とする若い衆。いそがしそうに大勢の被災者の食事の支度をする女性たち。


夕刻頃、とうとう実家に向かう。電話では一度話したけど、本当に生きてるのかうちの両親?さすがにカメラを回す余裕はここだけはなかった。遠くから一輪車で向かってくる人間、、母親だった。やせていたけど思ったより元気で安心した。目の前の小学校が津波をせき止めていた。ぎりぎりの状況。こうした家が無事だったエリアほどに、避難所よりも救援物資が半分も届いていなかったという事実。農家の納屋を緊急避難所兼飯炊き場にして、近所でなんとかやりくりしていた。数日前まで、おにぎりを2人で半分にしていたという。
30分で別の避難所へ移動。途中、小さい頃よく遊んだ川沿いに信じられない風景が広がっていた。約5kmほど川沿いの建物が消滅。駅もガソリンスタンドも何もない。津波はこの川を猛烈な勢いであがってきていたのだ。夕刻に呆然としながら次の避難所矢作地区へ…。


夜花巻に着いたのは20時頃だったろうか。早速、今日何が求められて何が足りなかったのか何をすべきかのMTG。山田さんはずっとこのようなペースで冷静沈着にやってきていた。ブログには、訪れた場所、人などの写真とともに、いま必要なもの足りないものが具体的にリスト化され、刻々と綴られている。毎日、寝るのは3時、4時。
情報集め、物資集め、被災地への運搬、打ち合せ、情報発信。この一連のスキームをウレシパモシリさんご一家、山田さんが宿泊させてもらっている同じく自然農園の藤根さん、それと、山田さんとスタッフの永嶋さんでやっていたという事実。本当に言葉にならない。


彼らは全く動揺していないしむしろ冷静だった。
震災前後で、基本的生活のスタイルをほとんど変えていない。
食事は確保でき、水道は井戸水、薪で煮炊きする。電気はなくても、ランプやロウソクでやりくり、廃食油で使用できる発電機だってもっている。ガソリンに依存していないから普通に移動できる。


さて、次に、何が必要だろうか?